美島豊明インタビュー The man behind Cornelius

美島豊明・幼少時代

[美島豊明さん 4才9ヶ月(1966年11月?)]

マスヤマ:こんにちは。さっそくですが、経歴をざっとお願いします。

美島:1961(昭和36)年、千葉生まれ、実家は父が経営していた居酒屋です。私もバイト的に手伝ってました。

マスヤマ:おっ、じゃあ、魚を三枚におろせるとか!?

美島:うーん、もう忘れちゃったなぁw。大学は普通の文系で、卒業して少しだけ就職していましたが、シンセのレンタル会社に転職して、そこから音楽の仕事ですね。

マスヤマ:1980年代中期というと、まだ”マニュピレータ”とか”オペレータ”と呼ばれていた頃ですね。シンセの操作が複雑化だったで、専門家が必要だった。

美島:そうですね。ミュージシャンとしては、80年代中期に、細野晴臣さんのレーベル、ノン・スタンダードで”ワールドスタンダード”をやっていたソウちゃん(鈴木惣一郎さん)と、80年代後期にエブリシングプレイというグループをやりました。

マスヤマ:コーネリアスとは、デビュー以来ですか?

美島:はい。あぁ、フリッパーズギターの時も、最後のアルバムで2曲くらいやったんだけれど…。どの曲だっけな…。グルーブチューブだったかな?今いち思い出せません…。

マスヤマ:ええっー(まぁ、プロってそんなものか…)。まぁ、そのうち思い出してください。まぁ、コーネリアス関連の話は、おいおい、ゆっくりうかがうとして…。子供の頃の音楽体験から、教えていただけますか?

美島:自分で意識的に聞いた最初はビートルズですが、もっと小さな頃、夜寝る前に、よくモーツァルトがかかっていました。 昭和40年くらいの話なので 母方のジイさんの形見で、多分SP盤です。自分が小学生の頃は、まだ SP盤のプレイヤーの方が当たり前で、LPの方が珍しかったような気がします。やけに重たかった覚えが…。
その、母方の祖父は車のエンジニアだったんですが、もともと軍隊で飛行機の整備士をやってました。祖父は、耳がよかったらしくて…。当時は計測器がないから、音で機械の具合を計るというか診るんですね。戦後は、いすゞ自動車でバスの設計をやっていたらしいです。

[母方のお祖父様(時期不明)]

マスヤマ:おぉーっ。カッコいい!!白洲次郎みたいじゃないですか!よく見ると、このバイク、ハーレーダビッドソンだし!

美島:他人のバイクの前に立ってただけじゃないですかねぇ…。後ろにあるのは複葉機だから、戦前なんでしょう。見る人が見ると、いつ頃なのかもわかるのかな。

マスヤマ:耳がよかったって、音楽の仕事に直接結びつきますね。確か、美島さんの弟さんも…。

美島:ピアノの調律師です。

マスヤマ:ほほーっ。音楽一家ですねぇ

美島: 母方の系統で、隔世遺伝かと…。 母は山口県生まれです。歴史上の話ですが、長州藩の一部は、戦国時代に毛利元就(もうり・もとなり)が出る前、大内家が治めていました。母方の祖母は、その大内家の家臣で、”弘中 隆包(ひろなか・たかかね)”一族の最後の生き残りだったんですよ。

マスヤマ:おお!Wikipediaにも出てますね。

”弘中氏は清和源氏の流れを組み、壇ノ浦合戦後から代々岩国の領主を務めていた家系である”(Wikipediaより)

[母方のお祖母様(時期不明)]

マスヤマ:また、この写真も、さすがに気品があるというか…。世が世なら、我々シモジモのものは、顔も見られないという…。

美島: 祖母の父、つまり、私のひいジイさんの時に、鉱山か何かに手を出して、全部すっからかんになっちゃたんです。それで、どうしようも無くなって、東京に来た と。ばあちゃんが子供の頃だから、明治後期ですかね。男の子が居なかったので、弘中家はそこで絶えてしまって、もったいないねと言われたそうです。

バアちゃんは、よく子供たちを集めて、お前たちにバクチ打ちの血が流れてるから気をつけろと言ってました。子供ごころには、何だ?とは思ってましたけど、後から話を聞くと、ああ、そういうことかとw。

マスヤマ:長州藩は明治維新で天下を取りましたが、いわゆる”武士の商法”で、失敗しちゃったんですかね。でも、”住友家”が江戸時代以来の資産家で、明治以降は大財閥になってゆくのも”銅山”ビジネスが大きかったわけですから、夢もあったんでしょう。

美島: 父方の実家は、奄美大島なんです。群島の中に喜界島(きかいじま)という小さな島があって、祖父は明治の終わりか大正の始め頃、徴兵で東京に出てきて、そ こで知り合った人に誘われて警官になったのかな?そこから、また人づてで紡績機・織機を作る会社に勤めて、それなりに出世して重役になったということです。。

[父方のお祖父様(昭和30年代)]

マスヤマ:トヨタも元は織機ですし、当時のハイテクですね。奄美群島は、鹿児島県ですが、文化的には沖縄(琉球)に近いですよね?

美島: そうですね。バアさんの友達が家に来て、琉球踊りみたいなのをやっていたときの衝撃は、今でも覚えています。まず、言葉が分からないんですよ。バアさん同士が、全く日本語じゃない会話をしていて、「この人たち、英語が喋れる!」って子供ごころに思いましたw。その後、相続したので、喜界島に土地があります。そこには誰も住んでませんが、親戚は居ます。何回か、遊びに行ったことあります。

[父方のお祖母様(昭和30年代)]

マスヤマ:美島さんご自身の生まれ、育ちは昭和30年代の千葉ですね。

美島:幕張です。両親が千葉に来たのは、母方の祖父と父方の叔父が、戦後すぐ結核になっちゃったからですね。当時はまだ都心よりも空気が良かったから、結核の療養に来る人が多かったみたいです。その頃の幕張は、今とはまったく違う、ひなびた漁村ですね。

美島豊明さんとお母様 (昭和36・1961年)

マスヤマ:いわゆる”江戸前”の貝や魚ですか?

美島:僕が生まれた頃は、 まだ海が残っていて、 海苔作りや貝の潮干狩りが盛んでしたね。主にアサリです。バカ貝(青柳ともいう)は、バカでも採れるからバカ貝って聞いたことありますが、アサリは、砂浜 で”目”を見つけないと採れないんですよ。地元のバアちゃん達に、「ここ、貝だから掘ってごらん」ってよく教えてもらったんですが…。もう忘れちゃった なぁ。

マスヤマ:音楽への興味は?自宅にあるテープレコーダーで遊んでたとか?

美島:ありましたね。ジイさんの形見のSP盤もオーディオもあったから…。最初に買ったレコードは…、何だっけな?「帰ってきたヨッパライ」(1967)だ!まだ5-6才だから、親に買ってもらったんですね。

マスヤマ:私も8-9才でしたが、よーく覚えてます。まぁ、子供はあぁいうチップマンクもの(テープの回転数を早めて声を高音にしたもの)で、ふざけたもの、好きですよね。

美島:その後買ったレコードで、覚えてるのは「走れコウタロー」(1970)です。当時は歌謡曲が全盛で、周りでも人気ありましたが、自分はあまり興味持たなかったので、今から考えれば”企画モノ”が好きだったのかなぁw。

マスヤマ: まぁ「ヨッパライ」も「コウタロー」も、かなり”プロデュースされて”ますからね。日本では、三木鶏郎さんやクレージーキャッツなど”冗談音楽”の系譜も 強いし…。いずれにしても、流行ってればいいわけではなく、子供の頃から音楽の好みが、はっきりしていたんですね。楽器の習い事は?

美島:ピアノ、あ、オルガン教室が最初ですね。幼稚園のとき。小学校からはエレクトーン。中学でピアノをやったような気がする。楽しかったですね。練習がイヤイヤとかはないですね。

マスヤマ:では、ある程度弾けたんですね。楽器習う人は多いけれど、だいたい最初の数カ月で挫折するじゃないですか。

美島:んー、結構楽しくやってましたから、それなりに楽しく弾けていたのではないかと思いますよ。今は、全然指が動かないけれど…。

マスヤマ:発表会とかでほめられたとか?

美島:あぁ、そういうのもあったなぁ。

マスヤマ:どういう曲をやってたんですか?

美島:そのとき好きだったのは、ボサノバとかニーノ・ロータとか。

マスヤマ:おぉ。もう最初から、ポップスの中でも、もっとも洗練された部分を!テンションの入った複雑なコード(3和音・4和音にさらに音を加えたもの)がいっぱい…。

美島:んー、どうなんでしょう。僕は”イパネマの娘”でも、譜面から先に入ってますからね。後から原曲聴いて、こんな曲なんだと思ったくらいで…。

マスヤマ:音楽以外は、どうだったんですか?スポーツや勉強は?

美島:スポーツは、それほど…。水泳やっていたくらいで…。千葉市立の幕張小学校。全部の教科が好きで、 成績も良かったですよ。それが学生時代を通じて学習のピークw。音楽は小5か小6くらいから、すごく好きになりました。ビートルズですね。
たまたまテレビで、映画の「ヘルプ!」(最初の公開は1965)だったと思う…をやっていたんですよ。あと、ラジオでビートルズ解散の特集で「あ、コレだ」と思いました。近所にいたお兄さんもちょっとビートルズ好きで。教えてもらったこともあります。

マスヤマ:ビートルズ好きだと、ギター弾きたくなりません?

美島:中学に入ってから、習いに行きましたね、親に頼んで。クラシックギターを半年くらい。当時は、フォークやエレキギターを教えてくれるところなんか無いですから。もう、今ではダメです、指動かない。楽器は全部、指動かなくなっちゃってダメですね…。

表彰台の右が美島豊明さん (1964年頃)

 

2012-11-28 | Posted in | Comments Closed